さくら横ちょう 加藤周一
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちょう
想出す 恋の昨日(きのう)
君はもうここにいないと
ああ いつも 花の女王
ほほえんだ夢のふるさと
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちょう
会い見るの時はなかろう
「その後どう」「しばらくねえ」と
言ったってはじまらないと
心得て花でも見よう
春の宵 さくらが咲くと
花ばかり さくら横ちょう
歌うたいならみんな知っていると言えるぐらい有名な歌です。中田喜直と別宮貞雄の付曲が有名ですが、私は中田喜直の歌曲全般に苦手意識があって、今まで避けていました。
でも歳のせいか、苦手をなくしたい、避けたまま終わりたくないという気持ちがこの頃兆してきて、来週のミニコンサートで中田喜直の「さくら横ちょう」を歌ってみることにしました。このチャレンジ意識は、中田喜直に直接師事したS先生とご縁ができてから膨らんできたものです。
さて、加藤周一のこの詩は「ロンデル形式」で書かれています。これはフランスの詩形で、2つの4連行+1つの5連行ないし6連行から成ります。第1連の冒頭2行(この詩だと「春の宵 さくらが咲くと / 花ばかり さくら横ちょう」)が第2連と第3連の最後に繰り返されます。
押韻はというと、脚韻が「ABba abAB abbaAB」、この詩だと「と・う・う・と / う・と・と・う / う・と・と・う・と・う」です。
随分と凝った形式ではあります。日本の詩歌の韻律はモーラ(拍)中心なので、俳句や短歌のように5・7調とか7・5調になったりするわけですが、敢えてヨーロッパの韻律で日本語の詩を書いてみようというところに一つのチャレンジ精神があるわけですね。作曲者はおそらく、詩の韻律をどのように生かすかに腐心したことでしょう。
メロディを見てみると、第1連は「春の宵」で立ち止まり、「花ばかり さくら横ちょう」はワンブレス、「想出す」で立ち止まり、「君はもうここにいないと」はワンブレスになっています。詩に即してポーズ(休止)が入っています。
となると、第2連の「ああ いつも 花の女王」は3つのフレーズ感で、「ほほえんだ夢のふるさと」はワンフレーズとして歌うのがよいのでしょう。実際、そう歌うと姿がきちんと決まります。
第3連、「会い見るの時はなかろう」は、「相見る」(対面する)ではなく、敢えて「会い見る」と書かれていることを考えると、「会い」「見る」と軽く分ける意識で歌うのがよいのでしょう。
「その後どう」「しばらくねえ」という他愛ない言葉の応酬は、敢えて意味ありげに歌いたいところ。そして、その後の「と」までが一行であることと、「言ったってはじまらないと」の「はじまらないと」だけ4/4拍子になっていることを意識しつつ、「心得て花でも見よう」で曲は頂点に達します。とはいえ、「見よう」の語尾を引っ張りながらひらひらと舞い落ちる桜の花びらを模した長3度のギザギザ下行音型には、思い出の美しさとなつかしさと痛みも託されているようで、人の世と生の儚さが浮き彫りになります。フェルマータから戻ってほっと溜息をつくと、現実に戻って「春の宵…」がリフレインされ、さらりと終わる。短いながらもドラマ性のある作りになっています。
やはりこの歳にならないと歌えなかった歌だな、と改めて思っています。